

当時の状況を知っているかもしれないと現職の市幹部から紹介された元職員の男性の証言では、設置時期が今中原夫・6代目上野市長時代の1983(昭和58)年から87(同62)年ころ。桑名市の鋳造メーカー「北勢鋳鉄製作所」(現・北勢工業三重営業所)が試験導入として無償で納品した約10枚のうちの1枚だという。市役所に蓋に関する資料は残っていなかった。
男性は当時、旧上野市役所の都市計画課で工事設計などを担当していた。道路から芭蕉の蓋が消えた理由は「足で踏みつけるとはけしからん」という市民の意見がきっかけで、設置から半年足らずで市長から撤去の指示があったらしい。
〝幻の蓋"について男性は「メーカー担当者がうまく図案化した。今までで一番いいデザインだったと思う。上司が市長を説得してくれたらよかったが、すごく残念に思った」と振り返る。男性の記憶によると、蓋はメーカーが回収した。
噂を耳にした人のなかには「芭蕉の顔が図柄に使われていたらしい」と話す人もいたが、元職員の男性は「俳聖殿が芭蕉の旅姿を表現した建物だからでしょう。芭蕉の顔などを使った蓋は見たことない。そんな図案なら、採用はしていない」と否定する。今回みつかった蓋の写真を確認し、「まだ市内に残っていたとは」と驚きの様子だった。

伊賀市としての最新版は3人の忍者と「ササユリ」「キジ」「アカマツ」の花鳥木を組み合わせたデザインで、2006年に公募し、採用。旧伊賀町は手裏剣を投げる忍者と町章が図柄のマンホール蓋だった。下水道工務課によると、市内全域にあるマンホール蓋の総数は管路の延長からの試算で約1万2千枚に上るという。
市街地で生活排水や雨水を流す下水道管が最初に敷設整備されたのは田中善助・上野町長の時代で、1929(昭和4)年に完成した。61(同36)年4月発行の上野市広報には改良工事の予算計上の記事が、73(同48)年4月の広報には「整備拡張計画を立てる」という見出しが載っている。市史編さん係の笠井賢治係長は「上野町の下水道整備は、当時から考えると先駆的な取り組みで、1964年に上野市が発行した『開発白書』には普及率が県全体の14・9%に対し80・9%という資料が残っている。上野市広報に載った改良工事は敷設から30年経った下水道管などの修繕が目的で、拡張計画は宅地開発が進んでいた緑ケ丘地区などの整備だったと考えられる」と話す。
2017年6月10日付701号25面から