【地図を手に当時の被害状況を説明する吉住さん】
「何もかも乗り越えて日本の今がある。これからも安心で安全である時代を作っていってほしい」。三重県名張市下比奈知の医師、吉住完さん(88)は、戦後80年の今も、戦争の悲惨さや平和の尊さを語り継いでいる。当時8歳だった吉住さんが疎開先の同市新田で経験した空襲の話を聞いた。

「日本の最も貧しい時代をここで過ごした」という新田には母方の祖父の生家があり、1944(昭和19)年から身を寄せていた。来る日も来る日も、米軍のB29爆撃機が頭の上を飛んで行ったと振り返る。
45(昭和20)年6月15日午前9時20分ごろ、突然「ゴォー」「キーン」と空気を切る音がすると、爆撃機から落とされた焼夷弾が花火のように銀色の光で炎を放った。家の台所と座敷にも一つずつ落ち、一気に燃え上がったが、水を掛けるなど母やおばら女性たちは冷静に消し止めた。祖母や妹たちも布団をかぶり、炎の下をかいくぐって逃げ出した。
焼夷弾が直撃した同級生は右足の親指1本残して甲が吹っ飛び、玄関から噴き出る炎の中、逃げ出てきた向かいの家の人もけがをしていたという。市の資料などによると、この空襲で旧初瀬街道周辺にあった15軒の民家などが全焼、または半焼した。
約1か月後、今度は低空飛行する戦闘機の機銃掃射が再び新田を襲った。その様子を目の当たりにした吉住さんの兄は「名張の山から来た2機のP51戦闘機。1機は逸れたが、1機は地面すれすれに真正面に来、両方の翼に閃光が走り、ダダダダダダという爆音で着弾の土煙が上がった」と後に記している。
攻撃により足を撃ち抜かれた人、天井から飛んできた弾に背中を撃たれ穴が開いた人など、負傷者は18人にも上ったという。けが人が運び込まれた美旗小学校の講堂は血の海になり、負傷した人の足をのこぎりで切断するなどした際に床に染み込んだ血は、拭いても拭いても取れず、「踏むことができなかった」と吉住さんは語る。
8月に終戦を迎えたが、次の日に食べる米もない日常で、つらい思いをした。「戦争は二度と起こしてはいけない」と強く思ったという。

戦地から生還した義父の苦悩
吉住さんの義父、上島英義さんは激戦地・パラオで、軍医として死線をさまよい、生き残った数少ない一人だ。九死に一生を得たが、19年前に91歳目前で亡くなるまで、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんだという。
「戦争は多くの人を奈落の底に突き落とし、勝っても負けても得することはない。力で物事を解決しようなど、絶対やってはいけない」と吉住さんは力を込める。「時代をきちんと読み解くのは難しいが、情報に惑わされることなく、判断力を身に着け、物の本質を見極める重要性を若い世代に伝えていきたい」と語った。