【被爆者手帳を手に体験を語る中谷さん=名張市さつき台2で】

 「戦争ほど残酷なものはない。二度とあってはならない」と語気を強める三重県名張市さつき台2の中谷絹子さん(94)は、16歳だった1945年8月6日、米軍が原爆を投下した爆心地から南4キロの広島市大洲町(現・同市南区)で被爆した。「被爆のことを語るのは私の使命」と、体験を語り続けている。

 故郷は島根県。学徒動員で44年10月に広島県呉市の海軍工場、翌45年2月に出張勤務として大洲町の中国配電製作所で働くことになった。宿舎は町内の小高い丘、比治山のふもとにある広島女子商業学校だった。

 8月6日、出勤途中に響いた空襲警報で工場内の防空壕に避難したが、飛来したのは1機だけで、すぐに去っていった。仕事に戻って出勤簿の整理を始めようとした時、ピカッと光り、目の前に七色のキノコ雲が見えた。

 驚いて立った瞬間、爆風に足元をすくわれ倒れた。顔にガラスの破片が刺さり、口が2つになったように切れ、血が流れ落ちた。何が起きたのか分からないまま、机や椅子は全部ひっくり返り、窓ガラスは割れて飛び散り、屋根も飛ばされ、一瞬で足の踏み場もない惨状になった。

 工場内は、全身焼けただれた人や皮膚がズルズルになっている人たちが徐々に集まり、いっぱいになった。皆、口々に親や兄弟の名を呼び、「水、水」「苦しい」「熱い」と言いながら目の前で息絶えていった。昼ごろになると、息がある人の体にもうじがはい回り、肉の焼けた臭いと死臭で息も詰まる思いだったという。

 工場から宿舎に帰る途中では、通勤客を乗せた満員電車が鉄枠だけになり、中には丸焦げの人が炭のようになって並んで座っていた。草や木も焼け、ビルの中は溶鉱炉のように燃え盛っていた。

 やっとの思いで宿舎に戻ったが、潰れて跡形もなかった。「自分の命を一番大切に」と言い続けていた尊敬する先生も亡くなっていた。先生を自分たちでブドウ畑に運び、石油をかけて火葬した悲しみは今も忘れることができないという。

 「この世のものとは思われない地獄そのもので、終戦と聞いても感情はなかった」と中谷さん。終戦まで広島にいたが、どうやって過ごしていたかはほとんど記憶に残っていないという。

「命は一つ、大事に」

 島根県に帰ると、父親が「よう生きていた」と抱きついて泣いた。その後、中谷さんはバケツ1杯分くらい吐血した。貧血になり、とにかく体が弱ったと振り返る。骨もボロボロになり、それ以来骨の薬を飲み続けてきた。

 19歳で結婚し、2年後に大阪府豊中市に転居。終戦から14年後に被爆者手帳を取得した。体が弱いのに加え、夫も早くに亡くしたため、3人の子どもを苦労の連続で育て上げたという。

 同市内の小学校で体験を語る活動を始めたのは、退職した60歳から。それまで戦争の話はほとんどしなかったが、被爆者の会の役員になったのを機に精力的に活動するようになった。会では、差別を受けて結婚できなかった人や後遺症に苦しんだ人など、大変な人生を送った話も聞いた。手帳を持っていても風評被害などに遭い、返却した人もいるという。

 平和集会にも何回か参加した。「人間は賢いようで、自分が体験したことしか分からない。なので過ちを繰り返す」と、語る必要性を痛感し、20年以上活動した。

 長女の神前ひろ子さん(73)と同居するため6年前に名張市に移住し、今は穏やかな日々を過ごす。中谷さんは「戦争はあってはならないこと。いっぺんに多くの罪のない人々の命を奪っていく。命は一つしかない。大事にしないといけない」と話し、夏が来るたび「この平和がいつまでも続きますように」と祈りを捧げている。

2023年8月12日付849号1面から

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