約350年前の水害で被災し、その後廃されたと伝わる三重県名張市下小波田の寺が、住民49戸の総意で再興を果たした。仏像が並ぶ集議所は、法人格を有する「綜福寺(そうふくじ)」として、高野山真言宗の末寺に列せられた。4月23日には、弘法大師(空海)生誕1250年と寺の再興を祝う記念法会が営まれる。
市史などによると、江戸初期、伊賀を治めた藤堂藩は、新田開発のために2つの大きなため池を造成した。ところが1658(万治元)年と75(延宝3)年にいずれも大雨で決壊。下流の下小波田集落は家屋や蔵が流されるなど大きな被害が出たとされる。
集落には「総福寺」「宗福寺」などと記録された寺があり、この時に大きな被害を受けたと言い伝えられている。水害後の状況は不明だが、明治初年に廃寺になったとされる。
ところが、住民たちは廃された寺の本尊など6体の仏像を、集議所の一角で現代まで保管し続けてきた。集議所を「寺」と呼んで親しみ、定期的に法要も営んできたという。
そんな中、5年ほど前から住民たちの中で「寺を再興しよう」という機運が高まり、やがて本格化した。隣接地区の寺の住職に兼務を頼み込むとともに、地域に広く「寺」として認めてもらえるよう、宗教法人の認可を受ける準備も進めた。
寺の名前は「そう」の部分に複数の字が当てられていたこともあり、改めて「綜」の表記に統一。法人格は、兼務を承諾した住職が本山と交渉するなどし、30年以上前から休眠状態になっていた志摩市の寺から引き継ぐ形で昨夏、三重県から認可が下りた。
集議所で守ってきた仏像は、水害の影響からか傷みの激しい状態だったが、京都の職人に依頼するなどして大掛かりな修復を施した。志摩市の寺から受け継ぐことになった仏像1体と合わせ、計7体が集議所の建物の一角に安置されている。
再興事業を中心になって進めてきたカフェ経営の内山克則さん(72)は「今の時代に、こうして自分たちの地区の寺の形を再び整えることができてうれしい。本当にまれなことだと思う。いつまでも守っていきたい」と話した。
23日は午前9時30分から、稚児や檀家ら約130人が行列を組んで地区を練り歩く。同10時からは同寺で、新住職の晋山式や記念式典などが営まれる。