第二次大戦下の1945年6月、三重県伊賀市高尾に飛来した米軍機の機銃掃射で、住民の女性1人が命を落とした記録が「高尾郷土史」(1979年)に刻まれている。「この山あいの小さな集落に米軍機が来て、しかも人が亡くなるとは……」。その様子を目の当たりにし、今も鮮明に覚えている住民に話を聞いた。
日本の戦況が厳しさを増してきた同年6月9日の昼ごろ、高尾地区南部に位置する上高尾集落の上空に、前深瀬川の川下から2機の米軍機が飛来。「機銃掃射の大きな音に驚いた牛たちが田や山の方へ逃げ惑っていた」。当時11歳だった、上高尾にある寺院・西明寺の住職、篠木義範さん(88)が自宅で祖母と昼食をとっていた時だった。
幼子残し
亡くなったのは、自宅近くの苗代で作業をしていた若い女性。この女性には、まだ物心つく前の息子がいた。「表で遊んでいた近所の子どもたちは、道沿いの水路に隠れて無事だったらしい」。戦後に高尾へ嫁いできた近所の女性はそう振り返る。苗代近くの土蔵には、今もその時の弾痕が残っていると伝わっているそうだ。
郷土資料の「伊賀の軍事施設と戦災」(2007年)によれば、この日は高尾以外に、名賀農学校や蔵持国民学校(いずれも名張市)なども機銃掃射を受けた記録が残る。翌10日付の伊勢新聞には「農漁村を機銃掃射敵小型機 伊賀へ初来襲」の見出しとともに「海岸から遠いこんな山だから、まさかここまでは来ないだろうとの不用意な心構えなどはただちに一掃し、市民も農村も敵機がいつ来ようとも慌てないだけの準備が必要」と記されている。
最近まで毎年開かれてきた地元の慰霊祭では、戦死者とともにこの女性も「戦争犠牲者」として弔われ、慰霊碑にも刻まれている。長らく法要に携わってきた篠木さんは「こんな悲劇が伊賀の、この高尾で起きたことは今も信じられない」とつぶやいた。
2022年8月13日付825号22面から