【原爆の被害範囲を説明する森岡さん=伊賀市下阿波で】

父と祖父母失った 広島への原爆投下

 1945年8月6日の米軍による広島への原爆投下。三重県伊賀市下阿波の森岡文孝さん(77)は生後7か月の時、爆心地から東に2・2キロの地点で被爆し、父と祖父母も亡くした。戦後77年、「当時の記憶はない」が生き残った母や4人の兄たちから伝えられた原爆の惨禍を語った。

 5人兄弟の末っ子として生まれた森岡さん。米軍機の爆弾投下により空襲警報が鳴り響く日常の中、母は幼い森岡さんと三男を連れ、五日市町(現・広島市佐伯区)にある別宅に避難していた。日差しの強い6日の朝、警報が解除されたことで避難場所から列車で自宅に帰ることにした。己斐駅(現・西広島駅)の停留所で乗り換えの列車を待っていた時、爆心地から閃光が走ったそうだ。

 下涼みをしていた電柱が盾となり、全身やけどは免れたが、影からはみ出した頭頂部付近は熱線で大やけどを負った。森岡さんを抱えていた母の腕も熱線を浴び、終戦後もケロイド(やけど跡の皮膚の盛り上がり)が残っていたことを思い出す。当時7歳だった三男とは離れ離れになり、後に話しを聞くと「物陰にいたから熱線は受けなかったが、飛んできたがれきを背中に受けて血だらけだった」という。

爆心地と己斐駅の位置関係

 同時刻、爆心地から300メートル東にある自宅にいた祖父と仕事で町に出ていた父は、全身やけどで被爆から1週間後に死亡。庭にいた祖母は爆風を直接浴びて即死した。小学6年だった長男は、学童疎開のため市外の寺へ避難しており、次男と四男も離れた親類の家にいたので無事だった。

 被爆後、母に抱えられた森岡さんは五日市町の家へ戻った。三男は近くの防空壕で1日を過ごした後、トラックで隣町まで送ってもらい、そこから徒歩で帰宅したという。やけどは近所に一軒あった開業医に見てもらったが、薬不足で十分な治療も受けられず、化膿してうじが湧くほどに。時間とともに自然治癒し、現在は跡も残らないほど完治したが、家族が負った心の傷は癒えない。

 戦後は広島の高校を卒業。神戸や大阪の会社で働き、伊賀市に移った35歳から金属部品の製造会社で定年まで勤めた。

 今は「三重県原爆被災者の会」の伊賀支部長として、地域の小中学校や県外のイベントで、当時の写真や被害状況が書かれたパネルを見せながら平和を訴える。かつては30人以上いた会員も今では2人。時代とともに少なくなった被爆者は重要性を増し、語り部への思いも強くなった。

 ニュースで日々取り上げられるロシアによるウクライナ侵攻の話題。核兵器使用の可能性について緊張が高まる中、講演会でも「同じ悲劇を二度と繰り返してはいけない」と強く訴える。

 厚労省によると、被爆者健康手帳を持つ全国の被爆者は、2021年度末で12万人ほど。1981年代末のピークには約37万人と記録されており、被爆の記憶の継承が課題となっている。森岡さんは「自分には関係ないと思わず、若い人にも平和の大切さを考えてほしい。私たち被爆者は、戦争の悲惨さを後世に伝える義務がある」と思いを語る。

2022年8月13日付825号1面から

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