【幼さが残る丈夫さんの遺影を見つめる井上さん=名張市赤目町丈六で】

【戦後76年】

 三重県名張市赤目町丈六の井上進さん(83)は、太平洋戦争末期の1945(昭和20)年7月24日、赤目口駅(同市赤目町丈六)で米軍艦載機による空襲に遭った。当時7歳の井上さんは銃弾を受け大けがを負い、一緒にいた4歳離れた兄・丈夫さんを亡くした。あの夏から76年、井上さんは「2度と戦争はしてはならない」と非戦への思いを語る。

 井上さんにとって、丈夫さんは「頼れる兄」だった。いつも後ろをくっついて回り、近所の川で遊んだり、桑の木の皮はぎ作業をしたり、兄の友人も交えて遊んだりした記憶が残る。青蓮寺地区に米軍爆撃機B29が墜落した同年6月5日には、2人で遠くの空を見上げ、乗組員がパラシュートで脱出する様子や機体が落下する一部始終を一緒に目撃したという。

井上さんの背中に残る銃創痕

 7月24日は、朝から空襲警報が出たため小学校が休みになったが、親類の出征の日だったため八幡神社での神事後、兄弟で一緒に駅まで見送りに行った。人が集まるホームに名張駅方面から列車が近づくなか、その更に後方から米軍機が低空飛行で列車を追いかけてきた。井上さんは兄の背中を追って急いでホームの待合所裏に回り込み、学校で教わった通りに身を伏せた。

7歳で受けた銃撃 傷痕は今も

 米軍機は、列車や駅に集まっていた群衆を目掛けて機銃掃射を浴びせた。井上さんはその間の出来事だけは、よく思い出せないという。しばらくして米軍機は去ったが、井上さんは立ち上がることができなかった。その時はしびれたような感覚で痛みを感じなかったが、両足と背中に銃撃を受けていた。激痛は後々になって感じた。

 なんとか両手で這ってホームに出ると、切れた架線から火花が散る光景があった。自分のことで精いっぱいで、兄がどうなったかを考える余裕はなかったと振り返る。銃撃を受けた人たちは、家々から外された戸板で小学校の講堂に運ばれた。駅を一瞬にして「血の海」に変えたこの空襲では、約50人が死亡、100人以上が負傷したという。

 井上さんはその後トラックに載せられ、上野市(当時)の病院に向かった。荷台の離れた場所には顔と足に銃撃を受けた兄も横たわっていたが、病院に着く前に息絶えてしまったと聞かされた。井上さんは別の病院で治療を続け、8月15日には病院のラジオで終戦を知った。兄を失った寂しさの中、「あとひと月、早く終わっていれば死なずに済んだのではないか」との思いが巡ったという。

 2021年8月、仏間にある幼い兄の遺影を見つめる井上さんの背中には銃弾が貫通した痕、右足親指には銃撃による変形、左足には手術痕が今も生々しく残る。

井上さんが機銃掃射を受けた赤目口駅。ホームには今も弾痕が残るという=同

2021年8月14日付801号1面から