1928(昭和3)年の完成から約1世紀。伊賀市西端に位置し、奈良県境の名張川に架かる国道25号の「五月橋」が、間もなく新しい橋に代替わりする。架橋以前は渡し舟しか交通手段が無かった場所で、交通の要衝として多くの人が行き交ってきた。2代目の橋は今春の供用開始を目指しており、現在の橋はその後に解体される予定だ。【名張川に架かる五月橋(手前)と新しい五月橋。右奥が伊賀市治田、左手前が山添村遅瀬(1月28日撮影)】

 山添村東部・旧波多野村の村史によれば、1893(明治26)年、同村を東西に通る「水間街道」の改修が進められる中、現在の五月橋の1・5キロほど上流に、同村中峰山から花垣村予野(現在の伊賀市予野)への木橋が造られた。しかし、台風による増水で約2か月後に流出してしまい、当時の波多野村長は橋のたもとで号泣したという。

新橋の橋名板は児童作

 その後、県議会議長や同村の村長などを歴任した中西楢治郎氏(1874‐1934)を中心に住民らが架橋を切望した結果、三重・奈良両県の共同事業として1927年5月から工事が進められ、翌28年3月に竣工した。鋼製で長さは96メートル、幅は4・5メートル。当時は両端の親柱上部にランプも取り付けられていた。工費は「八万余円」で、現在の価値に直すと1億3500万円以上を要したとされている。

にぎわいに期待

 近隣は製茶や養蚕が盛んで、神波多神社(山添村中峰山)への参詣者が多かったこともあり、五月橋が完成したことで「これまで渡舟によってのみ三重県側と往来していた本村にとって、まさに画期的な出来事。交通上・経済上の恩恵は計り知れない」と同村史にも記されている。

 同市治田でスーパーを経営し、移動販売などで五月橋を日々利用してきた奥伸也さん(61)は「五月橋があるからこそ、県境のこの地域で人の往来がある。新しく、広い橋ができてありがたい」、楢治郎氏が残した当時の資料を自宅で保管している孫の達成さん(76)(同村西波多)は「立派な橋ができた。たくさんの人が行き交い、にぎわってくれたら」と期待を込めて話した。

 県伊賀建設事務所によると、現在の橋の西隣に造られた新しい五月橋は長さ92・5メートル、有効幅員7メートル、アーチ部分の高さ15メートルの鋼製で、道路にはセンターラインが引かれ、片側1車線の通行が可能になる。上部工の落札額は約7・5億円。1月下旬には、伊賀市側の成和西小、山添村側のやまぞえ小の児童が考案・作成した橋名板が新しい橋に取り付けられた。

自宅に残る開通当時の写真や資料などを見せながら話す中西達成さん=山添村西波多で

2020年2月22日付 766号 11面から

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