「子どもたちを銃口の前に立たせるようなことは、してはいけない」。8月15日は74回目の終戦記念日。戦争体験を語れる人が少なくなる中、語り部として訴え続けている、名張市つつじが丘南3番町の阿部磨智恵さん(93)。広島出身で、当時19歳だった阿部さんが体験したあの夏を振り返った。【戦争関連の書籍を手に当時を振り返る阿部さん】

広島出身の元看護師

 「鳥がフンをするように」爆弾が落とされていく日常が続いていた1945年の8月6日は、やけに静かで平和ともいえる朝だった。広島県尾道市の日立造船因島病院の看護師で、当直明けだった阿部さんは「こんな穏やかな日がずっと続けばいいのに」と海を眺めていた。

 突然、「キーン」という金属音が聞こえ、キラッと光った後、米国の重爆撃機B29がたった1機だけ姿を現し、伊予灘の方向に飛び去る姿が視界に入った。その1機が、広島の市街地を火の海にし、黒い雨を降らせた原子爆弾を投下したのだと後に分かった。

 翌日、学徒動員先で被爆し大けがを負った14歳の弟が、阿部さんの勤める病院を訪ねてきた。「まっちゃん(阿部さんの愛称)、広島は全滅した」?。

 8日、阿部さんは病院の外科医と看護師の計5人で、被爆地に救護班として派遣される。町は生臭さや人が焼けた臭いが漂い、見渡す限り焼け野原だった。家屋は上から押さえつけられたようにつぶされ、至る所にガラスの破片が散在していた。「まさか」と思っていた弟の言うことは本当だった。「はよ、出ておいで」と家族を呼び、おいおい泣いていた老女の声は今も忘れられない。

尊厳奪った原爆

 とてもこの世のものとは思えない光景に、救護班のメンバーも誰一人として口を開かず、活動拠点の宿舎とされた臨時救護所を目指し、黙々と歩いた。道路では、むしろをかぶった人が大勢寝ている。1枚めくると、女の子が1人、「こわいこわい」と震えていた。

 9日から12日までは、「大芝国民学校」に通った。しかし、十分な医薬品が無く、ピンセットにガーゼを巻き、ヤシ油を塗るくらいで、治療という治療はできなかった。やけどで水膨れになった頬にウジが湧いていた若い女性、机にずらっと並べられた胎児と胎盤の前で、うつろな顔でおにぎりを食べる子ども?。校庭に掘られた大きな穴では、多くの遺体が焼かれていた。

 その光景は阿部さんの脳裏に焼き付き、決して消え去ることはなかった。たった1発の原子爆弾が、人としての尊厳を奪ったのだ。

 平穏な生活を送る中でも「2度と戦争の時代に戻してはならない」との思いは強い。「戦争は男だけのものでなく、女、子どもも巻き込まれていく」。名張に居を構えた数年後の30年近く前から、戦争体験の語り部として活動を続け、県内の小中学校やイベントなどで「平和の大切さ」を訴えている。参加した子どもたちからもらった、用紙に隙間なく感想が書かれた手紙はずっと大切に保管している。

 時が経ち、語り継ぐことの重要性は日増しに強く感じている。三重県の遺族代表として広島市原爆死没者慰霊式に参列する阿部さんは平和を願い、手を合わせるつもりだ。

2019年8月10日付753号1、2面から