戦後73年を迎える今年。戦争経験者の高齢化が進み、教訓を次の世代にどう伝えていくのかが課題とされている。伊賀市上野田端町の伊室正三さん(85)は、旧制上野中学校の1年生だった当時、担任の指導で「修養日記」をつけていた。日記は1945年4月から翌年1月まで続き、当時12歳の少年が見聞きした戦時下の伊賀の様子が生々しく記されている。一部を抜粋して紹介する。【日記を手にする伊室さん】

 「4月24日 火曜日晴 〈前略〉上野も飛行場が建設され、この土地に爆弾を投下するかも知れない。覚悟はよいぞ、来るなら来い。今日も昼から、土運びがあった。袋に入るだけ入れた。さすがに重かった」
 伊室さんは勤労奉仕として地域住民とともに、現在の緑ケ丘、西明寺一帯にあった海軍航空隊伊賀上野飛行場建設に携わっていた。

 「5月11日 金曜日晴 〈前略〉歴史の時間中だった。警戒とともに、「ドッドー」と音がする。爆弾投下の音である。敵機の音がしたと思ったら空襲になった。敵機来襲と共である。B29の爆音だけでも大きかったので、びっくりして穴に入った。満員である。静かにし、耳を澄ました。やがて敵機は帰って行く。「ドッドー」の音の続きの長いこと、また大きな音、今までにこんなのはなかった。今日も僕の命があった」
 建設が進む飛行場は空襲の対象になった。「学校の第2グラウンドで、一人用のを掘ったことをよく覚えている」と振り返る。【飛行場について記録した日記の一部】

 「6月6日 水曜日晴 学校で名張の者は口々に話をしてくれる。敵は落下傘で降りたそうだ。女の人でも竹やりで突くなど、6人の兵を捕らえたらしい。〈後略〉」
 6月5日、アメリカの爆撃機B29が日本軍の戦闘機の攻撃を受け名張市青蓮寺の山中に墜落。当時はが厳しく敷かれていたが、学校では地域の情報が飛び交っていた。

 「7月24日 火曜日晴天 〈前略〉ぼんぼん爆弾だ、これこそびっくり仰天だ。教科書を入れようと思っても間がなかった。思わず、フトンをかぶった。こんなことは生まれて以来、数えるほどしかない。こんな目に遭って思わず気が付いて教科書を入れたんだ。落ちるまでにしなければだめだ。今日は上野飛行場と、佐那具の駅と、三田の野間と赤目口駅で大阪行きがやっつけられたんだ。〈後略〉」
 伊室さんの住まいの近くにも爆弾が落下。大きな被害が出た近鉄大阪線赤目口駅での機銃掃射についても記載がある。

 45年7月28日、家族は西柘植村(現在の伊賀市新堂周辺)に家財一式を疎開させたが、伊室さんの日記もその中に含まれていたため、日記は9月18日まで止まっている。「この間こそ、我が家や我が国や世界中の『歴史の転換』を記録すべきだったのに」と悔しそうに話す。

 高校卒業後は三重県食糧営団に就職。29歳の時に結婚し、2人の子どもに恵まれた。2010年ごろにブログを開設し、今でも日記を書いている。「中学生の時の日記を書く習慣が、今も生きている。心は今も青年のままだ」と若々しい笑顔を見せた。

 「平和なこの地域にも、過酷な時代があったことを知ってもらう必要がある」という思いから、伊室さんの日記は、地元の文芸誌「伊賀百筆第25号」(2015年発行)に全文収録されている。【15歳ごろの伊室さん(本人提供)】

 ※日記原文の旧漢字や旧仮名遣いは常用漢字などに変えています

2018年8月11日付729号1、5面から