【セネガルの住民たちに合気道での木刀や杖の扱いを指導する小野さん(2015年、提供写真)】

海外協力隊で4か国派遣

 三重県伊賀市石川に移住し古民家を活用した道場を開いた大阪市出身の武道家、小野健次さん(62)=合気会六段=は、かつて国際協力機構(JICA)の海外協力隊員として途上国4か国で計約6年間、現地の人々に、争わない武道「合気道」を教えてきた。世界中の教え子からその次の世代へと、平和につながる精神が受け継がれていく。

返し技で相手を倒す小野さん=伊賀市石川で

 合気道は、植芝盛平(1883‐1969)が創始した現代武道。体を合理的に使って相手の攻撃をさばき、投げたり抑えたりして制する一方、ダメージは最小限に抑える。勝敗や優劣を競うことをせず、稽古で心身を鍛え、互いに高め合うことを目的としている。

 小野さんは、大学1年で合気道を始めた。入学時は高校以来の柔道を続けるつもりだったが、熱心な勧誘を受け、木刀や杖(じょう)といった武器を使うことに興味を持ったこともあり、合気道部に入部した。

 半年ほど経て、創始者の直弟子の師匠に初めて手ほどきを受ける機会があった。65歳の年齢でありながら凄まじい気迫を放ち、気付いた時には投げ飛ばされていた。小野さんは「体が続く限り、合気道を続けよう」と決心し、ますます修練に打ち込んだ。

 大学3年から学外の道場で指導するようになり、電気メーカーに就職してからも続けた。会社員生活に「もやもや」したものを感じていた26歳のある日、後輩から青年海外協力隊員の募集記事を紹介された。南太平洋のパプアニューギニア(PNG)で合気道を教える2年間の任務で、小野さんは応募を決め、翌年、海を渡った。

「合気道が共通語」

パプアニューギニアの祭りの会場を訪れた小野さん(左)と部族の伝統的な衣装を身に着けた住民たち(1988年、提供写真)

 PNGはオーストラリアの北のニューギニア島東半分と周辺の島々から成り、多数の言語と民族がひしめく。部族間の紛争が絶えず、治安は良くなかった。

 小野さんは首都郊外の警察学校に着任し、教官8人に合気道を指導した。現地警察では逮捕術として合気道が採用されており、小野さんが着任する以前から日本人が指導に当たっていた。

 英語が公用語だが、なまりがきつく、言葉での意思疎通はままならなかった。一方で稽古に支障は感じず、小野さんは「合気道自体が共通語になっていた」と振り返る。武器を扱う稽古では、現地の人々にとって木刀よりも身近な形状の杖を中心に指導。「ニンジャ」や「カンフー」の影響でアジアの武術への関心は高く、警察学校以外でも教室を開くと多くの住民たちが集まった。任期が終わるころには、上達した教え子たちの姿に、やりがいを感じたという。

パプアニューギニアで多くの住民を前に合気道の演武を披露する小野さん(左)(1989年、提供写真)

 達成感と寂しさを胸に帰国した後は、再びサラリーマンに戻った。結婚を経て46歳になった時、海外協力隊に40代から60代が対象の「シニア海外協力隊」の制度があることを知った。小野さんの中で、遠ざかっていた海外への思いが再燃。間もなくアフリカのエジプト、54歳の時にはセネガル、59歳の時には南米のペルーへと渡航を繰り返し、現地の合気道協会を拠点に住民への普及活動などを展開した。

 2020年に新型コロナウイルス感染拡大の影響で、全ての海外協力隊員が帰国を余儀なくされた。小野さんも無念の思いで大阪に戻ったが、間もなく「日本で今後の活動拠点を作ろう」と決めた。バイクツーリングで親しみのあった伊賀市で環境の良い古民家物件を見つけ、購入。離れの和室を改修し、新たな合気道道場「祥氣館」を立ち上げた。

道場を開いた小野さん=伊賀市石川で

 現在、道場には市内の社会人が通う他、大学生の合宿なども受け入れている。海外にいる教え子たちとはフェイスブックで今も連絡を取り合っているといい、「24時間、いつも自分の教え子の中の誰かが起き、世界のどこかで常に心身を鍛えている」と笑う。「コロナ禍が落ち着いてきたので、今後は海外の教え子たちを招いて稽古をしたり、観光を楽しんでもらったりする拠点にもしていきたい」と思いを語った。

2023年4月8日付841号1、18面から

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