【墜落したB29と搭乗員(布台一郎氏提供)】

 決して忘れられない―。77年前に三重県名張市青蓮寺で起きたB29米軍爆撃機墜落を、当時9歳の少年だった同市栄町の辻本進さん(86)は振り返る。「最近あった出来事のようだ」とつぶやきながら、遠い日の記憶を語った。

 辻本さんは子どものころ、同市下比奈知に住んでいた。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年6月5日朝、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。ラジオに耳を傾けると、神戸を爆撃して退却する米軍のB29編隊の動向を伝える内容が流れたという。

名居神社前でB29を見た方角を指す辻本さん=名張市下比奈知で

 家を飛び出し、近くの名居神社の一の鳥居の前で上空に視線を向けると、青空の中で白煙を吐く1機のB29が大阪方面から飛来。名張上空をしばらく旋回し、やがて機体のマークがはっきりと見えるほど高度を下げ、火を噴きながら南の山の向こうに姿を消した。

 「観音山の向こうに落ちたぞ」。辻本さんは隣に住む1学年上の男児と2人で山を駆け上がり、一本松と呼んでいた見晴らしの良い所まで来たが、煙が立ち上る場所はまだ先だった。米兵を捕らえようと荒縄と備中鍬を手に登ってきた近所の大人は「ありゃ青蓮寺だ」と諦めて戻っていった。2人は煙を目指し、歩き始めた。

 名張川沿いの道を下り、夏見を経て青蓮寺川を渡り、山奥へ歩を進めた。約7キロを1時間以上かけて歩き、墜落現場に到達した。米兵の姿は確認できず、初めて間近で見るB29は巨大な残骸と化していた。斜面に横たわる機体から山林へ火が燃え移り、地元の警防団員らが木の枝でたたいて消火していた。

 辻本さんはジュラルミン製の機体の金属片を手に取り、米国の技術力の高さに驚いた。長さ約10㌢の別の三角形の部品とともに、持ち帰った。部品は磁力を帯びており、後に父親が辻本さんに「発電機の一部だろう」と話したという。

 日本軍の攻撃を受けて青蓮寺の山中に墜落したB29に、搭乗員は11人いたが、うち2人は墜落時に死亡し、9人はパラシュートで脱出後に逮捕された。奈良県側に降りた3人は榛原警察署へ、三重県側に降りた6人は名張警察署へと連行された。

 翌日、「警察に人が集まっていた。『俺が兄の敵を討つから捕虜を出せ』と詰め寄る人もいた」と名張署前の状況を地元の発電所長が父親に話すのを辻本さんは聞いた。連行された9人は、その後日本軍によって処刑されている。

「後世に向け残せる」

 辻本さんは戦後、早稲田大を出て建設、不動産業界へと進み、会社を設立。59歳の時に三重県議に初当選し、2期務めた。県議を辞めた後の2006年、地蔵院の耕野一仁住職が地区の協力を得て、B29墜落現場の山中に追悼碑を建立した。「あの出来事を、後世に向けて形にして残せる。本当に良いことだ」と感じつつ式典に参列。その後も地元の伊和新聞の記者として活動しながら、終戦の日の8月15日に開かれる「平和の集い」を何度も取材し、21年には参加者の前で自身の体験を語った。

 今春、86歳まで続けた記者を引退。静かに暮らす辻本さんだが、ロシアによるウクライナ侵攻、台湾を巡る緊張の高まりといったニュースを人ごととは思えない気持ちで見ているという。「あの時は子どもだったが、名張で起きた戦禍を自分の目で確かに見た。戦争に良いことは何もない」


青蓮寺で15日に平和の集い

 名張市青蓮寺の地蔵院などで「平和の集い」が8月15日に開かれる。参加無料。

 戦争では、出征した名張の若者1190人も戦死。忌まわしい戦争の記憶を忘れないようにと、同院と名張ユネスコ協会、市宗教者連帯会の共催で毎年集いを開いている。今年はコロナ禍前と同様の内容を予定している。

 当日は午前9時30分に青蓮寺公民館前に集合後、同10時から同市青蓮寺一ノ谷のB29墜落現場で米兵11人の氏名を刻んだ石標に献花などを行う。同11時からは同院で耕野一仁住職の講話、市立百合が丘小学校による平和学習の発表、ミニコンサートなどがある。その後、子どもたちが平和を願ってハトを空に放ち、鐘を77回打つ。

 問い合わせは同院(0595・63・2191)へ。

2022年8月13日付825号22面から

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