【今は作っていない番傘を持つ4代目の澤野満さん】

 三重県名張市の名張商工会議所が創立60周年を迎えた2018年に創設した「名張商工会議所長寿企業表彰制度」。表彰された43社をより多くの人に知ってもらおうと、追加取材とデータをデジタル化して一つのホームページにまとめたサイトが開設された。表彰は、会員として10年以上経過した企業で、市内に本店、本社を有し、100年以上存続し経営する企業が対象。YOUでも毎週1社ずつ、創業年代順に企業を紹介していく。名張の長寿企業サイト

創業1890 明治23年

名張市東町1730
電話 0595-63-0469
代表者 澤野 満

■ 取扱商品・サービス

 法人成りした際にギフト部門も立ち上げ、竹材、提灯、ギフトの3部門で営業を始めましたが、現在は竹材販売、提灯製造販売の2部門です。中でも、名張市内や伊賀市内の一般家庭の初盆用の提灯に力を入れております。

「提灯は日本の祭りやイベントに欠かせないもの」と話す澤野さん

■ 事業の沿革

 明治23年(1890年)に初代澤野直吉が番傘の製造販売を始めたのが当店の創業です。その当時は○サ(マルサ)という屋号を使って商いをしていました。番傘は皆さんもご存じだと思いますが、骨組みが竹でできています。太い竹の骨に和紙を張り、その上に油を引いた実用的な雨傘、それが番傘です。
 2代目の豊吉が傘以外に竹の利用についていろいろ研究をした結果、提灯を思いつき、番傘と並んで提灯を製造販売することになりました。当時の販売区域は名張市内はもちろん、隣の山添や室生、曽爾などにもリヤカーを引いて売り込みに行っていたようです。
 終戦後、和傘は金属やナイロンなどを使った、より丈夫な洋傘にとって代わられるようになりましたので、店の名前も○サ(マルサ)という屋号から「澤野洋傘店」に変更し、洋傘の修理・製造販売をするようになりました。当時は小学生の通学用として名入れした黄色い傘が主力商品でした。見通しの悪い雨の中でも、黄色い傘ならドライバーからの視認性がよいとのことでよく売れました。とはいうものの、番傘の需要もまだあり、3代目の隆司が竹材の利用として日本建築の壁下地として竹の取り扱いもするようになったことから、店名を「澤野竹材店」に変更しました。
 その後昭和59年に「(有)さわの」として法人成りし、現在に至っております。

■ 経営理念・特色

 2代目豊吉から教えてもらった言葉「お客様からありがとうと言われる商売をしなさい」を心に刻み、これからも商売を続けていきたいです。

■ 名張一の個人商店を

 Q 創業当初の話は聞いておられますか?
 A 2代目豊吉から聞いた話ですが、初代直吉より3、4代前から提灯を作っていたようです。当時、両替商の補佐として藤堂家に出入りしており、藤堂家で使う番傘を作るよう指示されたそうです。提灯の経験を生かし、見よう見まねで番傘を作り始めたのではないかと想像します。
 その後、豊吉が提灯とともに本格的に傘を製造するため ○サ(マルサ) の屋号で独立し、リヤカーで山添村から島ヶ原まで配達するなど繁盛していました。
 また当時、提灯の修理で和紙を張り替えるため、名張川で洗い、川沿いに並べて干していたそうです。その後、材料である竹を幅広く活用するために、近鉄の遮断機の棒や伊勢湾の養殖海苔に使う竹柵、更に3代目の隆司からは日本建築の土壁の下地に使う竹を取り扱うようになりました。

 Q 満さん(62)は4代目を継いだのですね。
 A 継承した当初は提灯を扱う店が名張市内に3軒あり、商売は非常に厳しかった。しかし、どの店も後継者がいなくて廃業の危機にあり、辛抱すれば商売として成り立つだろうと考え頑張ってきました。現在、番傘は作っていませんが、初盆用や祭りの提灯と竹材を扱っています。

 Q 長寿の秘訣と今後については?
 A 当店が続いてきた理由は、ひと言で言えば会社が大きくならなかったこと。代々、借金もせず背伸びせずにやってきました。私も「名張一の個人商店」を目指しています。「社長」でなく「大将」と言って入ってくれる店が理想ですね。
 提灯は祭りやイベントに添えるパーツで、日本人として今後も残しておきたいものです。それに関われるのは商売としてありがたい。豊吉から教えられた「お客さまからのありがとうの言葉は、利益以上のもの」という言葉を肝に銘じ、一生現役で仕事を続けます。

工場外観。隣には竹材を保管している。

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