伊賀・堀永千代子さん(100)

 「何でも豊富にある今では、当時の暮らしは想像できない。もう二度と、戦争は起こってほしくない」――。第二次大戦の終結から今年で75年。終戦当時、幼い子を抱えながら懸命に生き抜いた伊賀市枅川の堀永千代子さん(100)=写真=に、当時の様子を尋ねた。

 1941年に長男の信一さんが誕生したが、ミルクは無く、おもゆやヤギの乳を飲ませていた。幸い畑を作っていたため、野菜や麦飯は手に入り、時折、行商人から魚を買うこともできたという。電気は夜7時から朝8時までしか使えず、炊飯や風呂を沸かすのはまきの火で、マッチなどの生活必需品は配給制。「何でも自分の手でせなならんかった」。

 45年、夫の髙男さんが朝鮮半島へ出兵し、家では義母と信一さんとの3人暮らしに。「何かと心細かった」と振り返るが、隣近所は互いに仲が良く、農作業も協力し、助け合って暮らしてきた。8月8日、自宅近くの鉄橋にさしかかった近鉄伊賀線(現・伊賀鉄道)の車両が米軍の機銃掃射を受け、35人が死傷。義母が住民らとともに駆け付け、負傷者を救助し、亡くなった人は墓地へ埋葬したという。

 同15日、堀永さんは近所の人たちとともに、組頭の家へ集まった。「それまで神さまのように思っていた天皇陛下のお言葉(玉音放送)」がラジオから流れてきた。聴き取りにくく難しい言葉が並んだが、「涙をのんで」という言葉を聞き、「あー、戦争が終わったんや」と実感した。

 戦後は、復員した髙男さんの大工仕事の手伝いや農業、家事などに精を出し、子3人、孫6人、ひ孫5人に恵まれた。「これまで無事に生きてこられたのは、周りの皆さんのおかげ」と、優しいまなざしで語ってくれた。

2020年8月8日付777号1面から

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