百地三太夫

史実的には見出せない

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 三大上忍の一人として有名だが、実は百地三太夫の名は史実的には見出せない。それでは何処から三太夫の名が出てくるのだろうか。

 三太夫は『賊禁秘誠談』に石川五右衛門の師匠として名が出てくる。伊賀国石川村の文吾という者が、上忍百地三太夫の弟子となり忍術修行をしていたが、三太夫の本妻と密通し妾の式部を井戸に投げ殺し金を奪ったので破門され、京都に逃げ、石川五右衛門と名のり大盗賊になる小説である。
写真=百地三太夫の生家と伝えられる屋敷と門の入口に掲げられた表札(名張市竜口)

 しかし、「石川や浜の真砂は尽きくるとも世に盗人の種は尽きまじ」という辞世の歌を残した五右衛門は、大盗賊として江戸中期から浄瑠璃や歌舞伎の立て役者になり、五右衛門が文禄3年(1594)に一族と一味が京都三条河原町で釜煎りの極刑にされたのは歴史的事実だ。

伊賀と大和の竜口を支配
三太夫は実在の人物か?!

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 『伊乱記』には喰代村の百地丹波守が、「天正伊賀の乱」の最後の戦場、名張市の柏原城砦跡で、百地新之丞、同太郎左衛門と共に参戦している。三太夫の名 が見当たらないが、百地姓は史実として残っており、百地氏は伊賀と大和の竜口を支配し、南北にまたぐ城山に砦を構え大江氏一族の戦国期の有力な地侍伊賀衆 であったのは事実である。近くに赤目四十八滝があり、ここで伊賀忍者が修行をしたと言われている。

 それに、三太夫がまったくの創作だといえない説もある。その理由は竜口が伊賀猿楽本拠地で白山神社の棟札には十人の太夫衆の名があり"太夫"の名 が多く見られるからだ。いずれにしても上忍は最高の忍者であり、『萬川集海』に「能き忍者は抜群の成功なりと云とも、音もなく嗅いもなく智名もなく勇名な し。其の功天地造化し」とある。

 名を残すようでは上忍でないのは当然なので、三太夫は本当に実在していたかもしれない。
写真=屋敷内の三太夫供養塔

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