服部半蔵

『一里はみな花守の子孫かや』

 松尾芭蕉が桜の名所である花垣庄、現上野市予野を訪れた時の句である。

 服部半蔵はここで出生し、予野の旧名を姓として千賀地半三保長と名のったとも言う。半蔵保長は早くから伊賀を出て松平家に仕え、その息子は服部半蔵正成といい、最も有名な忍者で三大上忍の一人である。江戸城半蔵門にその名を残した幕府の隠密頭であった。

半蔵正成 幕府の隠密頭
鬼半蔵と呼ばれ活躍する

 『寛政重修諸家譜』によると、半蔵は8000石の旗本となり与力30騎、伊賀同心二百人の頭領として活躍し世に鬼半蔵と呼ばれ、「半蔵正成は16才にして伊賀の忍びの者6,70人を率い城内に忍び込み戦功を励ます」とある。

服部半蔵

 ところで、伊賀における服部氏のルーツを考えると、上野市に伊賀一宮と呼ばれる敢国神社がある。服部一族が自分達の祖神である少彦名命と金山媛を合祀しており、服部が"はとりべ"と読み、渡来人系であることが分かる。

 そのすぐ近くの高畑には伊賀服部氏の惣家服部氏館跡がある。服部持法は鎌倉幕府御家人であったが、その後悪党となり、南伊賀の黒田の悪党大江氏と並ぶ北伊賀の名誉大悪党張本と呼ばれた服部右衛門太郎入道持法の館跡だ。

家康の伊賀越えの成功
「半蔵」の名  一躍有名

服部半蔵 生誕地碑=伊賀市上野予野

 服部半蔵が有名になった出来事は、天正10年(1582)本能寺の変で徳川家康が織田信長の自害を河内飯盛山で聞き、半蔵正成の進言により伊賀越えを実行し成功したからであろう。

 司馬遼太郎のデビュー作『梟の城』に登場する御斎峠は、上野市北西部と滋賀県信楽町との境にあり、家康が伊賀越えの際に通った峠だ。伊賀越えは神君御生涯艱難の時と『徳川実記』に記述がある。御斎峠を通ったのは囮(おとり)で実際は通っておらず、危険な場所を通過するまで人質を出させたと記述した古文書もある。

 服部半蔵はやはり忍者と言うより家康の16将の一人の武将である。伊賀町柘植町にある徳永寺は伊賀越えの際に徳永寺に立ち寄った寺伝がある。その功で葵紋の使用を許されている。

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