天正伊賀の乱
信長軍四万の兵 伊賀攻め
伊賀壊滅 最大の惨劇が...

天正9年(1581)、一度は信長勢を追い払い勝ち誇っていた伊賀衆は、信長の怒りを買い、なんと四万もの軍勢に伊賀の6方面より攻められた。伊賀衆は得意のゲリラ戦術で必死に対抗したが、所詮、多勢に無勢であった。神社仏閣はもとより民家までが悉(ことごと)く焼き払われ、老若男女お構いなしに切り捨てられ、伊賀は壊滅的な打撃を受け、伊賀惣国一揆は崩壊する。伊賀の歴史上における最大の惨劇であった。
それでも何人かの伊賀衆はしぶとく生き残り、全国各地に散らばることになる。戦国大名はこぞって伊賀衆を傭兵として重宝した。
伊賀衆 藤堂高虎が支配
護衛や探索、徴兵の任を

しかし、外様大名ながら徳川家康より一番信頼された藤堂高虎が伊賀を治めることになると、各地に伊賀衆が散らばっているのを嫌い、戻らなければ妻子を追放し領地を没収すると脅し、伊賀衆を呼び戻した。その後、高虎は伊賀衆の頭領クラスは伊賀者役の藩士とし、他は無足人の地位を与え伊賀衆を支配した。
伊賀者の主な仕事は藤堂家の参勤交代における護衛、各地の一揆の探索であり、無足人は有事の際の臨時の徴兵の任を持った半農半士であった。
写真=天正伊賀の乱の最終激戦地になった柏原城跡に建てられた記念碑
「伊賀の食採帖 第2弾」2003年11月15日発行分より
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